店じまい・店びらき ~閉店のヘキレキ~

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カテゴリ:蒲鉾屋さん( 7 )


2016年 03月 23日

追憶

2年ほど忙しさにかまけて放置していた弊ブログ。
もはや去年のことになってしまうが、下町・台東区根岸のかつての蒲鉾屋「和泉屋蒲鉾店」のお孫さんから
連絡があった。
営業していた当時の写真が載っていたブログを見つけたとのこと。

それが、「ぼくの近代建築コレクション」なるブログ。
2008年4月27日の記事には、確かに、生き生きと店を開いていたときのお店の写真が写っていた。

ブログの管理人の流一さん(ハンドルネーム)に許可を取り(それも去年のことだが)写真をここに掲載いたします

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右から2番目、赤い格子戸の店である。
今から27年前、1989年3月に撮ったものだという。
このときはまだ、お店が営業していたんだと思うと泣ける。
そして、この時、店の奥で、おそらくおじいさんがおでん種を作っていたのだなあと思うとまた泣ける。
もちろん、この写真に呼びかけても、おじいさんは出てきてはくれないのである。


掲載許可をいただいたのは以下のブログ「ぼくの近代建築コレクション」
http://blog.goo.ne.jp/ryuw-1/m/201603

古い物への心を忘れない良ブログである。ぜひお立ち寄りください。
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by misejimai | 2016-03-23 11:32 | 蒲鉾屋さん
2014年 12月 13日

人の悲しみの上に



いつも当たらない人騒がせな天気予報とは打って変わって
ここのところのソレはきちんと正確に告げていた。
この日も予報通り、トゲのような風が吹き付けている。


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やってきたそこは、かつて蒲鉾屋さんだった。
今はタールを流したような黒い外観だが、昔は赤い格子がはめられていて、洒落ていた。
名は「和泉屋」、明治から100年、3代続く老舗だった。
「おでん種」を1つひとつ手作りで仕込んでいた3代目のおじいちゃんは、
年寄る波には勝てず、
2006年、自ら店の幕引きを選び、さらには翌年、残念なことに他界してしまう。


だがその後建物だけは壊されずに、後ろにあったマンションのオーナーが相当のお金で買い取ってくれて、
そのまま残されることになった。
誰かがテナントとして借り受け、オフィスにしていたようだ。

しかし先日、この建物の取り壊しが決定した。













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白いやつによれば、
それはそれは立派なマンションができるそうだ。















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脇には、少し場違いな自販機が、口をふさがれている。
























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やがて、どこからともなく自販機メーカーの方がやってきて、



























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自販機を移動し、運んでいった。



























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残るはいよいよ、この家屋が壊される番だ。


3代目のおじいちゃんの練り物や煮こごりの味を知っているというお孫さんのWさん。今は鹿児島に住んで
いる。
少年時代、ここによく遊びに行ってはおじいちゃんから美味しい切れ端を口に入れてもらって食べていたという。

そして今・・折に触れ、鹿児島から都内に来たときに彼が僕に話してくれたおじいちゃんとの思い出が、古びたランプの光のように、いつまでも温かく、僕の胸の中に揺らめいている。

自分の経験したことではないのに、1匹の夜光虫のように離れない。


ところでWさん、おじいちゃんの背中に追いつくことはなかったが、
商人の血を譲り受けたのだろう、
奥様のお父様が経営するコンビニの店長を長年務めたのち、
もう1つの夢でもあった、タコスで一旗揚げようと移動販売を開始。
遠い薩摩の空の下で、頑張っている。













Wさんだけに宛てる「追伸」

Wさん、
みんな、名残惜しそうに
この店の前に立ち止まってくれていましたよ。

誰も見向きもしない、
名もない店の閉店が多い中、
振り返って見てくれるだけで
幸せなほうかもしれません。


ちなみに隣の160年続く提灯屋さんに聞いてみると
提灯屋さんの敷地にも、マンションができるそうです。

提灯屋さんは、道向かいの自宅でしばらく仮で営業を続けた後に
マンションの1階に何とか入らせてもらうことになったそう。
「ほんと、いやになっちゃうよね」と一言。



人の不幸の上に人の幸せは作られます。
人の悲しみの上に人の喜びが作られます。
人間はそうやって生きてきたのです。
だから決して感傷的になることなどないのです。

そんな永遠不変の摂理に逆らって
マンション建設反対!などというのは、
殺されるのは、とうの昔にわかっているのに、
この期に及んで命乞いする者です。


そう言いながら、やっぱり僕は、少し涙が出て仕方がないのです。
どんなに頭をかきむしっても、答えは出ないし、何も助けになれずにすみません。
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by misejimai | 2014-12-13 23:53 | 蒲鉾屋さん
2009年 10月 08日

街が蹂躙されていく、その邪

1人の男が、8月の羽田を迷っていた。
朝7時過ぎ。
ステアリングを握る両手の平にかすかに光る汗は、焦りを物語っている。
同じ周回道路を何回も回り、空港駐車場に一向に到着しない理由は至極簡単、方向音痴だからだ。
回った回数、実に7回。
宙空に浮かぶ飛行機雲の下で、肩をいからせて、意味もなくぐるぐる回っている。

そんな自分への憤りも、ターミナルでほほ笑むWさんの優しくたたえられた瞳の前に消えていた。


e0030939_20272362.jpg台東区根岸にあった老舗の蒲鉾屋さん「和泉屋」。
そろそろ恋しくなる「おでん種」を1つひとつ手作りで仕込んでいた
おじいちゃん。
鮫の皮で作る「煮こごり」は遠くから、車に乗って買い付けに来る
お客さんもいたという。
だがそんなベテランも年寄る波には勝てず、
2006年、自ら店の幕引きを選ぶ。
そして翌07年、残念なことに他界してしまう。

そんなおじいちゃんの練り物や煮こごりの味を知っているお孫さんが
Wさんだった。
よく遊びに行ってはおじいちゃんから美味しい切れ端を
口に入れてもらって食べていたという。
おじいちゃんの背中に追いつくことはなかったが、
商人の血を譲り受けたのだろう、
今は鹿児島で、奥様のお父様が経営する
コンビニの店長を務めている。

Wさんと知己を得る機会に恵まれて2年。
会うのは今年の1月以来だ。
今日はWさんが、所用で降り立っていた東京から鹿児島の
自宅へ帰る日である。

これで都合3度目となる直接対面だから、
緊張すると口ごもってしまう「お久しぶりです」もすんなりと言えた。






搭乗手続きまでの45分間、2人はたわいもない話に華を咲かせた。

代官山のラ・カシータというメキシコ料理屋さんの店主がWさんの作るメキシコ料理の師匠であるということ。

今回の帰省は、東京に在住していた頃、昔の仕事を通じて知り合った作曲家の方と食事をするためでもあったこと・・・など。

そしてこのとき、1つ報告があった。
和泉屋、存続決定である。
と言っても建物だけだけど。
もともと建物の取り壊しが決まっていたのだが・・・


「実はあの店は取り壊されずに、後ろにあったマンションのオーナーが相当のお金で買い取ってくれて、
 そのまま残されることになったんです。
 ただ、外観は黒くなってしまって、中はなにか事務所になってしまいましたが」

Wさんは撮ってきたデジカメの写真を見せてくれながら、
「店の面影はなくなってしまった。でも今でもありありと思いだせます。ここが勝手口でここで練りものを練ってここが・・・」と、懐かしそうに場所を教えてくれた。

大好きだったおじいちゃんの店の変わりよう。
もちろんこの先この場所がどうなるか分からない。
そんな悲しい時代の前触れに立ちつつも、常に明るさと強さを忘れないWさん。
閉店を取材している立場なのに、笑顔をもらった。

e0030939_20115057.jpg再会を期して別れたのち、僕は今聞いた新しい和泉屋を見に行った。
店の扉は目にも鮮やかな朱色で、根岸の空気を柔らかく、温かいものにしていた
名景の1つだったが、黒く塗られたその店は何とか輪郭だけは
昔のままだったが、明らかに違って見えた。

























e0030939_20134697.jpgある批評家が
「老舗がなくなっていくことは善悪の問題ではなく、想い出の問題。適応していくしかない」と
言っていたようだが、そんなやわな問題ではない。

文化がなくなっていくのである。
東京に固有の文化があるかと言えば、他府県に比べて「おらが街」という際立った点は見出しにくいかもしれない。
しかし、その中でも微妙な(今よく言われる「ビミョー」ではない)特徴がある
はずである。


押上に何やらノッポタワーが出来るらしいが、大きくて高い発想はもういい。
逆に狭くて小さくても豊かな文化こそ日本の心だと思う。
そういう文化が次の世代のメンタリティを育む。


幼稚園で「お店屋さんごっこ」をやっても、
魚屋や果物屋を知らない園児がいると聞いた。
コンビニごっこじゃ味気ない。




幼い頃「願い事は星にしなさい。タダだから」と母に言われた。
だが今の日本には、たくさん願い事がありすぎて星もパンクしてしまうだろう。
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by misejimai | 2009-10-08 20:36 | 蒲鉾屋さん
2009年 01月 18日

舌の記憶

二日酔いの朝、味噌汁が体に沁みわたる。

重い頭と、なぜか額の生え際にかすかに感じる鈍痛(何があったのだ)を引きずりながら、
体は羽田空港に向いていた。

W氏と2年ぶりの再会である。

彼は台東区根岸のかまぼこ屋さん「和泉屋」のお孫さんだ。

つみれにちくわにさつまあげ、串天、ごぼう、うずら巻・・・
冬の大定番、おでんに欠かせない、「練り物」系。

3代老舗の作る練り物は、
林家三平から続く一家も愛した味だと聞く。

回転海老名固めで年の瀬を賑わせた泰葉女史も幼い頃、きっと口にしたに違いない
(いつからかお騒がせファミリーとなり下がり、天国の師匠は謝ることしきりであろう)

さて、その和泉屋はすでに100年の歴史を終え、店舗は
取り壊しを待つばかりである。

そんな和泉屋のお孫さんとどうして出逢うことになったかは検索の小窓で
「蒲鉾屋」と入れるとお分かりいただけるかと思うので、しばし筆を休めてお待ちいたします。


・・・はい、お分かりいただけただろうか。

千葉の実家にちょっと遅めの帰省をし、このあとの飛行機で鹿児島のご自宅に
ご家族(奥様と2人の娘さん)とともに帰るW氏。

そして彼を見送りに来た鳩ヶ谷在住のご友人と3人で話す機会が得られた。


現在、W氏は鹿児島のとある小さな町で、
奥様のお父さんの経営するコンビニの店長をしている、

僕が今回確認したかったのは、同じ羽田のターミナルで2年前言っていた、
祖父の味を復活させたいという想いがあるかということだった。
少年時代から、そのつぶらな瞳が見ていた大きな背中とともに、
自然に触れて来た伝統の味。

人の心はいい意味でも悪い意味でもすぐ変わる。
人は変わる生き物である。

だから、目に見えるモノ、迫りくるコトをこなすうちに、
あの日抱いた決意も、破られては捨てられてしまう日めくりカレンダーのように、
どんどん薄れていってしまう。

だが彼は2年前と何ら変わらなかった。舌が覚える祖父の味の復活をどこか心に秘めていた。

「さつま揚げは鹿児島の名産ですよね。だから今いるところでも本場のは
 食べられるんです。でも僕にとって、さつま揚げは、おじいちゃんの作ったものが
 全てでした」

そして。
「楽天なんかでお取り寄せでもできれば・・・」

でもW氏にとってはまだそこに辿りつくまでには時間が欲しいのだと思う。
もちろん当面の生活もあるだろう。
レジ接客、商品荷受、商品陳列、清掃などもしなければならない。
でもその意志だけ持っていることを再確認できただけでよかった。


そのあとは、派遣村のことやモンスターペアレントの話やご友人のインド旅行の顛末など
話す。奥様と2人の娘さんは一足先に出発ロビーに行っていた。

気づけば搭乗時間だ。


搭乗手続きを済ませ、別れの時。今度はいつ会えるだろうか。

愛らしい娘さんがしきりに振る手が、行きかう客の体で何度も見えなくなる。
この娘さんたちは、曽祖父の作った練り物の味は知らないんだなあと思うと、
なぜだか鼻がツーンとなった。
エレベーターもエスカレーターも使わず、
階段を一段飛ばしながら帰った。


家路につく間際、コンビニに入った。
買ったのは、
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おでんだ。
コンビニのおでんは、和泉屋のおじいさまのような職人の作るものと比べるべくもないが、
今、この世にその味が無い今、
日かげりの街の中に24時間煌々と光るコンビニおでんで、
腹と心を満たすしかない

和泉屋の味を僕も食べられる日まで、何百夜、何千夜と羊を数えたい。
なんて書くとプレッシャーだろうかな。
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by misejimai | 2009-01-18 20:40 | 蒲鉾屋さん
2007年 06月 12日

羽田のコーラと蒲鉾ばなし

冷たいボトルコークに喉を潤しながら、男たちが「かまぼこ」について話し合っている。
2人がいるのはオールディーズが流れるお洒落なカフェだ。

今年の2月6日、以前は去年の7月28日の日記で紹介した蒲鉾屋さん、「和泉屋」。
その3代目のおじいさんの孫に当たるW氏が、千葉にある実家の私用で先日からこちらに滞在。
そして今日、鹿児島のご自宅に帰られるというので、羽田空港のターミナルで会う約束をしていたのだ。
せっかくの機会である。

そしてふらりと入ったお店がコカコーラ・プロデュース。トレードマークの赤を基調とした、アメリカンフレーバー満載のカフェだったというわけ。

美味しそうにコーラを飲み干すW氏は僕より小柄で(僕は167cm)、
こげ茶色の眼鏡の奥の瞳は、こう言っては何だが少年のように輝いていて(年上なのにすみません)、笑うと目が線に
なる、笑顔が似合う人である。

ただその笑みが真顔になったのは、挨拶~名刺交換を済ませ、鹿児島の奥さんの実家で
コンビニの店長をしているといった近況を終えたあとのこと。

件の「和泉屋」の話である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「やっぱり取り壊されちゃうんですか、あそこは」
僕が聞くと、W氏は頷き、
「あそこはもともと借家だったんです。誰も居ない家は法律上、借地権の存続は認められない
 んです」
自ら言い聞かせるように云った。

「ところで、中はどうなってるんですか?」
「練り物を練る機械とかほとんど片付けてあります。あっ、でも--」
「はあ」
「いろいろな表彰状とか残っていましたね。あと柱時計とか」
僕は思わず体を乗り出した。
「へぇぇ、その中とか是非見てみたいですねぇ、いや外部の、しかも見ず知らずの人間に
 簡単に見せられるものじゃないでしょうけど」
「そうですねぇ、取り壊す直前になったら中に入ることもあるとは思いますので聞いては
 おきます」
「ありがとうございます。是非お願いします。まあできたらで結構ですんで。でも今まで見てきた お店の中でも、あれは
 本当に思い出深くてですね・・・」
外観の、朱色と黒壁の鮮やかな色彩がいかに印象的だったかを僕がしばし説くと、
W氏は僕の視線を受け止め、こんなことを明かしてくれた。
「実は少し前、今度『三丁目の夕日』の続編が撮られるというので、その映画の製作会社に、
 お店を売り込んだんです」
「え?」
「FAXで、お店の写真を添えて、もし良ければここで撮影してもらいたいということを書いて
 送ったんです。でも全く何のリアクションもなかったですね、無視でしたね」
「残念ですねぇ。僕にそういう力があれば・・・」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
W氏は小さな体躯で身振り手振りを交えながら、祖父とのことを話し始めた。
「僕と祖父との関係は、いわゆる普通の孫とおじいちゃんにありがちな像ではなかったですね。
 幼い頃はよく店にも行きましたが、特に何かを買ってもらうとか、僕のほうから、ねだる
 とかいったこともなかったですし。背中だけを見ていたというか。結婚式とか親族の寄り集まり
 でも、向こうは寡黙な人ですから、無邪気にしゃべった記憶もないですし」
 
僕はしんと聞き入る。

「鹿児島に行く前、僕は京都で3年ほど仕事をしていたんです。そのとき、おじいちゃん、
 おでんダネをクール宅急便でよく送ってくれましたね。
 すでに90歳は過ぎてたんですが、朝4時起きで毎日店を開け、
 築地には週に2、3回は自分で仕入れに行っていました」

奥さんを早くに亡くし、1人根岸の広い家で蒲鉾のために生きてきた人生。ただ、時には孤独で腐ることもあっただろう。
後継者がおらず、そして自分としても職人としてのプライドが、誰かが後を簡単に継ぐことを
良しとしなかったのだろう。

店のカウンターの壁に架けられているコカコーラの木目調の時計が、
いよいよ搭乗手続きの時を待っていた。

だが、W氏の声がさらに熱を帯びたのはそれからだった。
父親が商社マンだったこともあって、幼い頃メキシコに住んでいたこと、
そのため、舌がメキシコの味を覚えており、実はそれで飲食業を始めたいと思っている
ことなどを白い歯を見せながら語ってくれた。

「その事業の夢、かなうといいですねぇ。青写真ではいつごろ-」
「10年先ですね。妻に言ってあるんです。10年経ったら、好きなことさせてくれ
 って。今は妻の実家に入ったマスオさん、そしてコンビニの店長だけど、その後は俺の自由に させてくれって」
いつしか、“僕”が“俺”に変わっていた。

「その商売を成功させる自信もあるし、予見もしてるんです。
 最後は、妻の後押しだけですね」

先ほど携帯の写真で拝見させていただいた、亡きおじいさんの顔と目の前のW氏がだぶった。
この人は根っからの商人、しかも、おじいさんの血をしかと受け継いだ人だ-。

-Wさん、おじいちゃんという強力な後押しがいるじゃないですか。
僕は心の中で、力強く励ました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
最後に、W氏は「これ」と言って紙袋を渡してくれた。
鹿児島名産のいも焼酎だった。
「何も僕は持ってきてないのに、いいんですか?」
「貴方とお話をするのがお土産みたいなものですから」
「ありがとうございます」

自然と手が伸び、握手を交わしていた。


夕闇に包まれた空港から飛び立つ希望の両翼。
いつの間にか晴れ上がった雲間に吸い込まれる、一筋の光に
別れの目礼をし、僕はその場を去った。

そして今、もう朝だというのに、W氏からもらった焼酎でずっと一杯やっている。
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by misejimai | 2007-06-12 03:32 | 蒲鉾屋さん
2007年 02月 06日

遺伝子

こんなメールが1カ月前届いた。
実名は伏せてある。
本当ならば、きちんと公表したほうがいいというか、そうじゃないとうまく伝わらないとは
思いますが、そこはご容赦下さい。

******************************
貴殿ブログに2006年 07月 28日の回で取りあげて頂き、また、先日
NHKさんでの放映の絡みでお問い合わせを頂きました、蒲鉾屋『和泉屋』
のN・Sの孫のW・Kと申します。

先日は、せっかくのお話でしたのに、番組の方にお役に立てずに
申し訳ありませんでした。

本日(1月7日)、和泉屋店主、Nは千葉の病院にて
永眠致しました。永遠の「店じまい」となってしまいました。

返す返すも、彼の意志を継げなかった、あの伝統の味を
継ぐことが出来なかった、無念さにかわりはありません。

取りあげて下さってありがとうございました。

W・K




根岸にある蒲鉾屋さんである。
僕は去年の7月、偶然この店を見つけ、写真をアップした。
そのお孫さんがコンビニの店長をしていることも、
ブログをやっていることも書いた(7月28日参照のこと)

そして去年の年末である、NHKの番組に出させていただいたとき、
蒲鉾屋さんを紹介しようと許可をいただくべく頑張ったのだが、
やはりおじい様ら周辺の都合で結局取材はできなかった。
上のメールに僕はこう返した。



W様

お返事大変遅れてすみませんでした。misejimaiことU・Tと申します。
ここのところ、ほとんどこちらのメールに何も来ないものですから
放っておいてしまいました。申し訳ございません。

そうですか・・・。
ご愁傷様です。心中お察しいたします。
僕はもちろん会ったことのない方でしたが、
おじい様のことは隣の提灯屋さんに話を聞いたりしていたものですから、
残念でなりません。

番組の取材の件はこちらこそご迷惑おかけいたしました。
今まで見たお店の中で、特に印象に残る外観-朱色の鮮やかな-
だったものですから・・・
でも、こんな私にお知らせして頂いて本当にありがとうございます。

W様、味は継げなくても、その商売への想いをしっかりと
受け継いでいるではありませんか。
店を畳んだのは誰のせいでもありません。

もし宜しければ、このメールのやり取りをブログに載せても構わないでしょうか?
こんなことを最後までお願いするなんて大変に失礼だと思います。
ただ、おじい様が生きていた証が永遠に残るものだと思っています。
宜しくお願いいたします。




すると後日、こう返ってきた。

U・T様

 暖かいメールのご返信、ありがとうございました。
 鹿児島から、蒲鉾屋「和泉屋」の孫のWです。 

 >僕はもちろん会ったことのない方でしたが、
 >おじい様のことは隣の提灯屋さんに話を聞いたりしていたものですから、
 >残念でなりません。

 僕ら、孫の世代はあまり、ご近所さんとは
 お付き合いは無いのですが、うちの母などは
 「提灯屋さんの誰々ちゃん・・・」と、会話の
 端々で、名前を聞いたりしたことがあります。
 確か、息子さんが継がれたんですよね^^。

 >今まで見たお店の中で、特に印象に残る外観-朱色の鮮やかな-
 >だったものですから・・・
 >でも、こんな私にお知らせして頂いて本当にありがとうございます。
 
 そうですね、あの朱色に塗ったのは、実は、そんな昔の
 話ではなく、ここ10~15年の間だったと思います。
 扉の朱を塗ったときに看板も、塗り直したはずです。

 僕は、あの建物の柱の油の染み込んだ、黒い色が
 本当に好きで・・・。

 残念ながら、あの建物、取り壊す方向に、親族会議で
 決まってしまったようです。返す返すも残念です。
 この前、葬式の翌日、店を尋ねて、祖父の遺影に線香を
 あげたのと、思い出と記録のために、ビデオで録画して
 きました。

>W様、味は継げなくても、その商売への想いをしっかりと
>受け継いでいるではありませんか。
>店を畳んだのは誰のせいでもありません。

 そういって頂けると嬉しいです。

 でも、いつか、「再現してやろう!」って思ってます。
 僕の舌に記憶が残っているうちに。うちの母は、何度か
 本気で店を継いでも良いと思ったことがあったらしく、
 祖父に練り物の作り方を教わっているはずですので、
 母が生きているうちに、伝授してもらえば、可能かも
 しれません。

 時代が、本当にもう少し味方してくれていたら、
 「和泉屋」というブランドで、薩摩揚げや煮こごりを
 商品化して、楽天とかで通販したんですけどね^^。
 まあ、そういった、商売をしなかったのは、祖父の
 対「お客さん」という商売の基本があったからなので
 しょうけれど。「紀文」とか「つくごん」とかのように
 大きくはしなかったのが、祖父の誇りなのかもしれません。

 ちなみに、「紀文」は違いますが、「つくごん」という
 メーカーが商品を開発する段階で、うちの祖父が
 商品の出来上がりまでをアドバイス(もう、きっと
 何十年も前の話でしょうけれど)していたそうで、
 お葬式の時も「つくごん」の社長名で花輪が届いて
 いました。そっくりそのまま、ではないかもしれませんが
 祖父の職人としての「遺伝子」が「つくごん」の練り物
 に実は、影ながら引き継がれているんです。

>こんなことを最後までお願いするなんて大変に失礼だと思います。
>ただ、おじい様が生きていた証が永遠に残るものだと思っています。
>宜しくお願いいたします。

 それは、願ったり叶ったりです。Uさんがあのブログを
 続けて頂ける間は、祖父の居場所があるようで、嬉しいです。
 どうぞ、よろしくお願い致します。

 それと、もし、Uさんがよろしければ、
 私とのやりとり(メールの交換など)、続けて頂けませんか?
 なんか、色々、話をさせて頂きたいなあと思ったのと、
 こんな、面白い出会いから、もしかしたら友情が産まれるのかも
 しれないと思って、今、少々、ワクワクしております。

 いつか、私が上京したときにでも、お会い頂ければ
 とも、思います。もちろん、Uさんが、鹿児島に
 お越し頂く機会があれば、それはそれで、大歓迎です。
 それと、以下の文章を、祖父が亡くなったときに、
 mixiというSNSの日記に書きました。差し支えなければ
 抜粋してお使い頂いても構いません。

 (以下、mixi日記より)

【2007年01月07日】また一人、自分のルーツが・・・。

僕の母方の祖父が一時間ほど前に亡くなった。明治44年生まれ、今年年男で95歳
の一生だった。

祖父は、東京の台東区根岸というところで、三代100年続いた『和泉屋』という
蒲鉾屋(おでん種屋)を営んでいた。祖母が僕が20歳の時に亡くなっているか
ら、祖母が亡くなってから、ちょうど、20年、たった一人で、あの店を守って
きた。場所柄、多くの芸人さんに愛された、林家三平師匠の時代から、奥様の
海老名香葉子さん、林家正蔵(林家こぶ平)さん等も、お得意さんだったそうだ。
鮫の皮で作る『煮こごり』は遠くから、車に乗って買い付けに来るお客さんも
居るほど、飲み屋さん辺りでは高級珍味として、重宝がられていたそうである。
あの煮こごりを祖父が丁寧に包丁で切っていて、切りくずが出ると、「ほら、
食べるかい?」と僕らの口に放り込んでくれた。あの味を忘れることはないだろう。


僕の中には、この祖父の血が流れている。商売人というよりも、やはり「職人」
「玄人」の『血』だ。

残念ながら、蒲鉾屋を継ぐ者が出なかったけれど、そのスピリットは、
間違いなく、僕の中にある。

亡くなったとき、僕の所に、寄ったりはしなかったみたいで、もう、未練も
なく、天国へ召されたのだと思う。

安らかに、おやすみ下さい。


合掌。


去年、あるブログで祖父の店の閉店を取りあげて下さった。

店じまいブログ
http://misebiraki.exblog.jp/i103
 


【2007年01月14日】ゆったりとした週末

今朝は、祖父にお線香をあげようと、空港に行く途中、祖父の家に寄った。取り
壊す事が決まっている百年立つ祖父が守ってきた蒲鉾屋『和泉屋』をビデオカメ
ラに収めるのも目的だった。四十九日まで、おじが祖父のこの家で一緒に居てく
れるそうで、少し、安心した。

祖父が揚げ物などを作っていた作業台や練り物をこねる機械はすでに取り払わ
れ、がらんとしていた。

明治、大正、昭和、平成と四つの時代を生き抜いた祖父。遺影の祖父は「あとは
頼んだぞ」と微笑みを浮かべていた。

 (以上、mixi日記より)



 それでは、長くなりましたが、
 また、やり取り出来る日が来ることを
 楽しみにしております。




というわけである。mixiのは、抜粋するのが正直もったいないほどいい文章だったので、
丸々使わせていただきました。ご容赦下さいませ。
これを読んだとき、僕は思わずちょっと涙が出た。
顔も知らない相手にここまで共感すること自体、僕はあまりなかった。

新富町の製薬会社→コンビニ→取り壊し→アーチ部分は別マンションへ移築の例もそうだが、
遺伝子はどこかできっと残るのだと思った。
最初は単なる好奇心も加わってやり始めた趣味だが、
正直こんなに深いとは思わなかった。
これは末代まで辞められないブログだと思った。
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by misejimai | 2007-02-06 05:06 | 蒲鉾屋さん
2006年 07月 28日

人情はそこにあるものではない

e0030939_22135046.jpg
今日見つけた閉店貼り紙は、
台東区根岸の蒲鉾屋さん、和泉屋。
現当主で3代目、明治から100年
続く老舗の蒲鉾屋さんだ。
故林家三平師匠、海老名香代子さん
から林家こぶ平さんに至るまでこの店のファンだった。















e0030939_22141863.jpg
今年94歳になるおじいさんが1人で
切り盛りしていた
やはり年寄る波には勝てず、
ついに幕を引いた
2人の子供たちは誰も店を継ごうとは
しなかった
ここ数年、何度か店に立つのを
あきらめたこともある
仕入・製造・販売
すべてこなしていた











e0030939_22143645.jpg孫が今、鹿児島でコンビニの店長を
やっている
彼はブログで言う
「自分が今ある自分の生活を全て
投げ打っても構わないとしたら、それを人間関係が許したとしたなら、一番に後継ぎの手を上げたのだが・・・」

流れている商売人の血
ただし時代が変わると業種も変わる
ようだ











e0030939_22145251.jpg


「加満ほ古處」と
書いてある











僕が何より心を打たれたのは
その近隣の人々すべてが
店をたたんだことを知っていて
みんなが名残惜しいと口にしたことだ

人情が残るとはこのことではないだろうか
今や観光地にしかない「人情」

しかし
人情は、道端に転がる石ころのようにそこにあるものではない
意識して育むものだ

私たちはすでに、人情を育もうとするコトを放棄して
観光地へ足を運んでは、すさんだ心を癒し、
そしてまた都会の波に埋もれては、やさしさを失う


今や隣に住んでいる家のことを知らない人が増えた
店が閉まったときも同様で
閉店後、近隣の人々は閉めた事情も
知らない
名残惜しむ声も口にしない

店主が周囲に、閉めた事情を言う必要も無いのかもしれない
だが地域全体がその店を育てているのが本来の在り方だとしたら
やはり周囲には真意を伝えてもいいのかもしれない

子供もそうだ
地域全体がその子を育てていた
今や、個に個に行き、親が子をあやめる

隣の家にも我が子にも
本当に心を許すということを私たちは忘れてしまっているようだ

さて電脳世界の仮想商店街は今大繁盛だとか


そう言えば
団塊の世代が一斉に定年退職して、オヤジの街・新橋も将来つぶれるなぁ

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by misejimai | 2006-07-28 22:23 | 蒲鉾屋さん