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店じまい・店びらき ~閉店のヘキレキ~

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2008年 10月 21日

自宅にある蕎麦屋のメニュー表

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今まで色々な閉店に際しての想い出を持ち帰ってきたが、今回は最大である。
蕎麦屋さんのメニュー表。縦50cm、横幅3m。その大きさ、威容さに圧倒される。
それぞれのメニューの板は簡単に取り外せて、白墨で書き換えられるもの。今の季節ならきっと、きのこそば(800円)が美味しいはずである。


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このメニュー表は、自宅近くの江東区千石にあった蕎麦屋さん
「ほていや」の壁に開店当時から架けられていたものである。
三軒茶屋の太子堂で83年続く名店「ほていや」から暖簾わけし、この千石で39年間。
千石は木場にも比較的近い場所にあり、材木商や製材所が
昔はあった場所だ。
現在は工場や中小企業が民家の合間合間に立ち並ぶ。











自宅にある蕎麦屋のメニュー表_e0030939_115665.jpg
実はこの店、今年5月で閉店したのではあるが、その後毎日のようにやってくるマンション建設のデベロッパーの対応に追われ、お店の中のモノを
片付けることもできなかったとか。今ようやくそんな輩も来なくなり、片付けをようやっと始めたという。













自宅にある蕎麦屋のメニュー表_e0030939_124836.jpg店主の山本勝さん(67歳)が、ほていや本店に勤めだしたのは25歳の頃。
どうして蕎麦屋だったのか聞くと、
「まあ食い物商売は食いっぱぐれがないしね、ほていやに
勤める前は浅草の中華料理屋とかでも働いてたね」

結婚を機に独立、お店を持った。
「でも、暖簾わけって言っても味を継いでるわけじゃない。
自分のオリジナルの味」
ラーメン、タンメン、ぎょうざといった中華料理のメニューがあるのも、浅草で修行していた頃に覚えたものだという。

この地域には、ほていやよりも昔から営んでいた蕎麦屋さんもあったが、新参者にも優しいとか、空気になじむとかいう
以前に、昼ごろは店内が人で埋まった。それほど繁盛していた時代があった。

何人かパートで雇ったり、弟子もとったりしたが、勝さん曰く「人の使い方が下手で」、辞めていってしまった。結局残ったのは奥さんのカツ江さん(61歳)のみ。
子供は2人いるが、「無理に継がせてもやる気がなければ
ダメ」と、継がせることはしなかった。「好きでやってくれるならいいけど、今は蕎麦屋じゃ食っていけない」


8年前のある日、勝さんは意識を失って倒れた。
その日も店を開ける準備に追われている最中に、である。脳腫瘍だった。
手術をして懸命のリハビリ。1年後、勝さんは再び、このほていやの主人として戻ってきた。
闊達で、何でも明るく笑い飛ばすカツ江さんもご主人が倒れたとき「もうダメだ」と思ったそうである。

自宅にある蕎麦屋のメニュー表_e0030939_112855.jpg
だが・・・
今年5月、2階の住居で転び、打ち所は悪くなかったのだが、
急に体が動かなくなってしまった。当然、店になど立てない。
閉店は急だった。

「お客さんは“もったいない”っていうけど体が動かなきゃね」。
子供たちにも相談せず、ほていやは幕を下ろした。

現在、勝さんはデイサービスなどを受け、
リハビリに励んでいる。だが、足を引きずる音が、
音が澄んで響く秋の空気に冷たく染みる。










勝さんに、店の前で写真を撮りませんかというと、「ちょっと待って」と奥へ入って
またすぐ戻ってきた。頭には、お気に入りの帽子をかぶっていた。
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最大32人は入れる店内も、がらんとしている。
「お父さん、この1階はどうするんですか?」
「私が車椅子になったときのためにリフォームするんです」



僕は、今まで話を聞いていた店内の真ん中に架けられていたメニュー表が気になって、
僕はつい「メニュー表譲って下さい」と言ってしまった
ご夫婦も、こんな大きいものの処分に困っていたようで、逆に歓迎してくれた

自宅にある蕎麦屋のメニュー表_e0030939_135414.jpgカツ江さんが綺麗に、埃を拭き取ってくれる
僕は、まだ人の警戒心の薄い昼間を狙って、数百メートル離れた自宅まで運ぶことに
案外軽い
これを運ぶ自分は通行人にどんな
奇異の目で見られていただろうか
だが、近所づきあいもとくにしている
わけではなく、誰にも声をかけられる
こともなかった
まあ声をかけづらいことは確かである
いずれにせよ、そんな知らんぷりの街を通り過ぎ、自宅に到着


巨大メニュー板の他にも、蕎麦を入れていた器、“かえし”を作るときに使っていたお釜、ラミネート加工のメニュー表、
つゆを濾すときの布、ひいきにしていた鰹節問屋から毎年もらっていた前掛け、お盆を含め持ってきた
これら全てひとまず自分の部屋にあるが、妻にバレるのも時間の問題である



カツ江さんは写真に写るのはいいよと遠慮してしまったが、最後に一言、メニュー表をかつぎながら、店をあとにするとき聞いてみた。

「お蕎麦屋さんの奥さんとして幸せだったですか?」
「幸せとか不幸せとか考えてる時代じゃなかったわよ。食べるのに一所懸命だったから」


by misejimai | 2008-10-21 01:54 | そば屋


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